言いたいことと、借りてきた言葉

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さて夏休みも終わりに差し掛かったころ、執筆というものを差し迫られたお方も多いと存じ上げます。そこにうってつけの文章術、と言いますと、ちとお話にしては堅苦しゅうございますから、ここらでひとつ、僕の失敗談をしたためてようと思います。

 

1.

僕は一度だけ、読書感想文を提出できなかったことがあります。それも筆が折れたり止まったりするわけでもなしに、出来上がった読書感想文に対する「異和」を感じて気持ち悪いと、こんなものは出したくないと思ったのですね。今にして思うと学校の宿題なんぞパチこいてりゃいいのですけれども、僕からすると虚言を迫られるようで、心象的には大変苦しゅうございました。

 

「書き方」を決めてから書いてしまった、というのがいけないのですね。「読書感想文の書き方」という本がですね、家にあったんです。そこで少年だった僕は、「一応様式に則って書いたほうがいいのかな?」と思って、倣って書いてしまったのです。それがいけなかった。一見逆説ですけれどね。

 

このような文章術のクリシェとして、「思ったことを書こう」というのがあるのでございますが、「思ったこと」を「書かずに認知できる」という認識がちゃんちゃらおかしく、幻想でしかないと思っています。言葉を生み出すのは言葉であり、言葉が言葉を紡ぐのであり、言葉に隷従するのは私である。

 

まず「言いたいこと」があり、それを運搬する「言葉」がある。「言葉」というヴィークルの性能を向上させれば、「言いたいこと」がすらすらと言えるようになる。というのが通常の「文章修業」の論理である。
しかし、「言いたいこと」というのは、言葉に先行して存在するわけではない。それは書かれた言葉が「おのれの意を尽くしていない」という隔靴掻痒感の事後的効果として立ち上がるのである。
「ヴォイス」というのはいわばこの「隔靴掻痒感」のことである。
この隔靴掻痒感そのものを言語に載せることができれば、言葉は無限に紡がれる。
「言いたいこと」がもし単体として存在するなら、きわめて巧妙に言葉を使える書き手の場合、ある時点で「言いたいこと」が底をついてしまうだろう。

内田樹の研究室より引用

 

「メイドイン・アビス」 という漫画に、アビスという未曾有の大穴から手紙が届くシーンがあるのですけれど、その手紙を読んだキャラクターは「アビス深層」の様子を知り、いたく悟りを得るのです。このことは、「言葉を紡ぐ」ということに非常に近いと申し上げます。整列されたセンテンスを概観して初めて「ああ、アビス(自分の意識層)」はこうなっているんだ、と。口唇上から煙のように立ち昇る音こそが言葉だと。

 

「『文は人である。』私たちはこの俚諺に同意する。こう付け加えるという条件なら。『文は(宛先の)人である。』(…) 言語運用において、私たちのメッセージは〈他者〉から私たちに到来する。ただし、順逆の狂った仕方で (sous une forme inversée)」(Jacques Lacan, Écrits I, Seuil, 1966, p.15)

 

2.

僕は、実感のない言葉を言ったり聞いたりすると、もやっとしてしまいます。それは嘘やおべんちゃらなどの芝居打ちではなく、「言うことを決めてから言う」ときに生じる、「借り物の言葉」という意味です。

たとえば僕の小学校のころの思い出に、こういった話があります。その日は校外学習があって、少し歴史的な寺社の住職の方のお話を聞いたのですけれども、ポイ捨て犯の話を延々と聞かされるんですよ。それもとても強い語気で、「われわれが培ってきた文化を踏みにじる心ない人たちは、すみやかに罰せられるべきです」、なんて。おそらくほんとうに怒っているのでしょうけれども、「ゴミ捨て人」へ憤ることに、なにかしらの愉悦を感じているようでしたし、「教育者」のポーズを取るためにお話をしていたようにも見えるんですね。

 

まっとうに職務を遂行しているのですからお気の毒ですけれども、切実に感じられなかったんです。これ、ほんとうにぶしつけですし、スジが通ってないのかもしれませんけれど、おそらく「文化の庇護者」と「教育者」のポーズを取るために「怒りの言葉」を借用したからだと思うんです。

 

今でもこう思うんです。その住職の方が、怒りを手段として扱わずに、自分の個人的な感情の発露の目的として吐露していたら、ぜんぜん違う言葉が紡がれていたんじゃないのかって。こういうストックを網羅するだけの学校教育や文章術やSEOは、ほんのすこし哀しいです。